中原ぬこさん

言葉で遊びましょう

香水

※短い小説です

 

千葉の後ろを歩いていると、彼からいい香りが漂ってくる。どこの香水か聞いてみたら、これは香水じゃなくて柔軟剤だと主張してきた。職場で香水は禁止だから、聞かれたらすぐ言い訳できるような理由を用意していたと言わんばかりの説明に、わたしは圧倒される。時間に余裕があれば鏡を見て身だしなみを整える彼は、たぶんその時も香水をつけていたんだろうなと思う。


千葉が私と話している時は少しだけ仕事のことを忘れてくれているような気がした。私はそれが嬉しかった。私と話すことで息抜きになっているのなら、ずっと私と話していてくれればいいのにと思ったけれど、そういうわけにもいかない。
彼の仕事が増えないように私もせっせと働いていて、でもすれ違うと少し立ち話をして、また仕事に戻る。


ある時、千葉が仕事を休んだ日があった。千葉のことを私が過度に心配していると悟られたくはなかったので、それとなく仲間内に理由を聞いてみると、どうやら風邪を引いて高熱を出してしまったらしい。私は千葉に連絡を取って、軽く食べられる物を差し入れすることにした。

職場の最寄りから4駅、そこから徒歩13分ほどで彼の自宅に着いた。一人暮らしの千葉の家に行くのはこれで二度目だった。一度、同期の男女5人で一緒にお酒を飲んだ時に行った以来だ。今回は自分1人なので少しだけ緊張するが、差し入れを置くだけで長居するつもりは毛頭ない。


チャイムを鳴らす。するとすぐに千葉が出てきた。
「おー、さんきゅ。あがって」と千葉が言う。元気そうで少し拍子抜けしたが、元気に越したことはないとすぐに思い直す。
「おじゃまします。千葉は寝てなよ、すぐ帰るし」
「熱はほぼ下がってるしそんなにキツくないから、コーヒーくらい淹れるよ」
「いいって。それより、近くのコンビニでなんか色々買ってきたよ。ゼリーとかチンするだけのお粥とか、あとアイスクリーム」
「おー助かる、ありがとう。いくらだった?」
「要らないよ、でもまぁ復活したら呑みに連れていってもらおうかな。」
千葉は意外ときちんとしている。体調もまだ完全に復活した訳ではないだろうし、少し無理してるんだろうなと思った。彼の着ているグレーのTシャツは、汗ばんで少し色が変わっている部分がある。ちゃっちゃと帰ってあげなくては、病人に気を遣わせるわけにもいかない。
すると、玄関の靴箱の上にあった香水が目に入った。ガラスが少しピンクっぽい、どこか有名ブランドのものだろうか。千葉の物かと思って聞いたら意外な返事が返ってきた。
「あ、それは彼女のやつ。半同棲みたいな感じだから置いてんだよ」
「へぇ~、そうだったんだ、なおさら長居するわけにはいかないね。」
千葉に彼女がいたなんて知らなかった私は、少し声が上ずる。
「じゃあ帰るね、しっかり休んでよ」
「おう、ありがとな」
千葉のマンションをあとにする。時刻は19時を回っていた。本当に長居はせずすぐに帰ったのでなんとなくもの足らず、明日は休日だし気晴らしに駅周辺で飲み歩こうと思った。腕を上げてぐーっと伸びをする。
そういえば千葉の家に入った時、柔軟剤だと言い張るあの良い香りは漂ってはこなかった。香水は、結局どこのものだったのか分からないままだった。