中原ぬこさん

言葉で遊びましょう

willがかなり足りない

 

何もできないと思い込むことで、何もしないことから目を逸らしている。できないことから逃げているとか無力の悲観じゃなくて、要は、(おそらく)できるけど"やりたくない"からできないって都合よく置き換えて、行動しないことでラクをしている。


本当はしなきゃいけないこと、たくさんあるのに。単位足りてないからもっと頑張らないといけないし、病気の治療を真剣に考えないといけないし、薬物乱用をやめなきゃいけないし、生きることに前向きにならなきゃいけない。(一般論ではなくわたし自身のわたしに対する考えであって、同じような人に同じことを押し付けることはない) 
全部できるはずなのに、やらないしやろうとしない。自分にはできないんだって思い込んで、何もせず変わらないでいる方がラクで、それにあまりにも慣れすぎてしまった。
悪い意味で頑張ろうとしない。常に諦念を抱えている。自分にとってそれがいけないことだと分かっていても、頑張りたくなくなってしまった。
ざっくり言うと、こわいからやりたくない。
いい方向に変わろうと、やらなきゃいけないことをやろうと努力して失敗してしまったら、頑張ったことが水の泡になってしまったら、簡単に過程が無駄になってしまったら、どんなに頑張っても結果に結びつかなかったら、そしたら純粋に落ち込むし辛くて苦しいだろうと誰だって安易に想像できる。それらで傷つきたくなくて、自分を傷つけたくなくて、そうやって動かない理由ばかり探して、"できない"にしていった。
努力して失敗することなんていくらでもあること、頑張ったことが水の泡になったりすること、過程は無駄にはならないこと、頑張ったら必ず結果に結びつくなんて大間違いなこと、全部知ってる。みんな何かしら頑張って努力して辛くて苦しくても乗り越えてたまには休憩して適度に自分を甘やかしてそうやって生きていくことも分かってる。


で、これは甘えじゃないと思いたいんだけど、わたしの精神疾患による「0か100の思考」のせいで努力の過程を大事にできないから、人よりも頑張ることに臆病なんだと思う。
市販薬の乱用をやめなきゃいけないと思っていて、例えば1週間やめることが出来たとしてもその後再び乱用すれば、その1週間はわたしにとって無意味でしかない。主治医も周りの人も「たとえ1週間であっても再び繰り返しても、自分の意志でやめられたその期間は決して無駄じゃない」とか「やめられた期間を何度も積み重ねて飲む回数を減らして、最終的にやめられればいいんだから」って言うけど、やめられていない現在がある限り、結果は0で過程なんて無駄だと思う。
過程を大事にできないから頑張った実感が持てないし、実感が持てないから自分を褒めてあげることができない。褒めてあげられないから頑張れなくなったんだと思う。
でもやっぱり、そこで「できない」って諦めて動くまいとしてるのは自分の意思だからダメだなぁと思います。
人一倍頑張らなきゃいけないのに、スタートラインに立とうとしない我儘や諦念は、そう遠くない将来許されなくなる。