中原ぬこさん

言葉で遊びましょう

mayの可能性

 

わたしは自分のことを自分で過大評価する節がある。かわいいとか頭が良いとか運動神経が良いとか性格が良いとか芸術のセンスがあるとかコミュニケーション能力が高いとか、とにかく何でもできるとか。

だけど、わたしよりかわいい人の前では当たり前に全くかわいくないし、わたしより勉強できる人の前では当たり前にバカだし、わたしより運動できる人の前では当たり前に運動能力に長けていないし、例えば仏のような寛大さを持つ人の前ではちっぽけな器しか持ち合わせていないし、本当は絵だって大して上手じゃなくて、わたしレベルの絵なんて描ける人はごまんと居るし、コミュニケーション能力が高くてもそれを上手く使えていないし、とにかく誰かの前では圧倒的に劣っていることの方が多いのが事実なのに。自分を卑下してるんじゃなくて。


わたしの周りの人たちは、わたしに優しすぎる。それに甘えてしまう。


かわいいねって言われたら鵜呑みにするし、頭良いねって言われたらそうでしょうって肯定してしまうし、絵が上手だねって言われたら自分のセンスを過信してしまうし、周りの人のお世辞を信じ込んで、調子に乗って自分を肯定してしまう。

褒め言葉なんてたいてい嘘に決まってるのに、自分とか相手を信じたくなってしまう。嘘って決めつけるのはもしかしたら本心で言ってくれている相手に失礼かもしれないけれど。

信じて期待しても裏切られるだけだって、信頼して期待するのは怖いことだって、何度も口にして自分に言い聞かせてきているはずなのに、まだ分からないのかと。

本質的に、他人より優れている所とか価値なんてわたしにはないはずなんですよ。

でも、その"はず"に残された可能性を疑ってしまう。

きっと人は元来、他人と関わる限り愚かな生き物なんだなと思う。他人と一切関わらなければ優劣はつかないけれど、そんな寂しい生き方はできないようになっているし。

そして少なくともわたしは、愚行を繰り返す愚かで哀れな人間だなとつくづく思いました。